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藤井青銅著『「日本の伝統」の正体』
Amazon link この本によると 「幸いなことに、江戸時代はその後も平和が続く。すると1760年代あたりから、実態とはかけ離れた忍者・忍術が、芝居や本の中で活躍を始めるのだ。児雷也、飛加藤、石川五右衛門……など。芝居では、一目でそれが忍者だとわからなくてはいけない。だから、黒装束の忍者は人形浄瑠璃や歌舞伎で、このあたりから始まる。実際にそんなものを着ていたら、「私は怪しい者です」と自己申告しているようなものだ。」 他にも 「色仕掛け専門の「くノ一」なら、山田風太郎の発明と言っていいかもしれない。」 「忍者社会を階層分けし、そこに身分制度の趣まで持ち込んだのは司馬遼太郎とも、白土三平とも言われている。しかしこれも『万川集海』に「上忍」という言葉がある。ただし、意味は「すぐれた人」ということでしかないし、中忍も下忍も出てこない。」 PR
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「隠し国」で生まれた忍術 通じ合う忍の心と和の心 梟の城
http://www.sankei.com/west/news/140927/wst1409270012-n3.html 司馬遼太郎の忍者小説を取り上げて「忍術は廃れた、否、川上仁一がいる」と言う内容。 伊賀流忍者博物館名誉館長で、三重大学社会連携研究センター特任教授も務める川上さんは「日本人ならだれもが持つ忍耐を過酷に具現したのが忍びの術。精神力と身体能力を高めたのは、生活を守るためだった」という。 忍びは当時泥棒と同義語。 忍びの術とは盗人の術。 美化しすぎなんだよな。 |
忍者の起源は中国だの根拠がこれ。
読めばわかるがこれは忍術の巻物ではないし、忍者について説明しているものでもない。 一般的な間諜についての話とその重要性を説いているだけだ。 何かと古代中国にこじつけたがるのは権威付けにすぎない。 権威付けを欲するのは忍者が実際には盗賊やごろつきばかりだったからだろう。 忍者ファンがありがたがる万川集海も「オラの先祖は凄かった」ことを誇張して士分を取り返そうとした甲賀古士の創作本程度のものだと思う。 一、 孫子曰、凡興師十萬、出征千里、百姓之費、公家之奉、日費千金、内外騷動、怠於道路、不得操事者、七十萬家、相守數年、以爭一日之勝、而愛爵 祿百金、不知敵之情者、不仁之至也、非人之將也、非主之佐也、非勝之主也、故明君賢將、所以動而勝人、成功出於衆者、先知也、先知者、不可取於鬼神、不可 象於事、不可驗於度、必取於人、知者也、 孫子曰く、凡そ十万の軍を起こして千里の外に出征することになれば、民の経費や公儀の出費も一日 に千金をも費やすことになり、国の内外ともに騒動となり生業にも励めない者が七十万家も出来ることになる。そして数年間も対峙したうえで一日で勝負は決す るのである。それにもかかわらず、爵位や禄や百金を与えることを惜しんで敵情を知ろうとしないのは民をいたわらないことの至りであり、人を率いる将とはい えず、君主の補佐ともいえず、勝利の主ともいえない。ゆえに、聡明な君主や賢い将が行動を起こして敵に勝ち、人並み外れた成功を収めることが出来るのは、 あらかじめ敵情を知ることによってである。あらかじめ知ることが出来る者は神のお告げで出来るのではなく、過去の経験で察するのでもなく、自然界の事象に よって測れるのでもない。必ず人(間諜)に頼ってこそ知ることが出来るのである。 二、 故用閒有五、有因閒、有内閒、有反閒、有死閒、有生閒、五閒倶起、莫知其道、是謂神紀、人君之寶也、因閒者、因其鄕人而用之、内閒者、因其官人而用之、反閒者、因其敵閒而用之、死閒者、爲誑事於外、令吾閒知之、而傳於敵閒也、生閒者、反報也、 ゆ えに、間諜を働かせるには五通りある。村落の間諜、敵方からの内通の間諜、こちらのために働く敵の間諜、死ぬ間諜、生きて還る間諜がある。この五通りの間 諜がともに活動していて、その働きぶりが人に知られないというのが、いわゆる神紀、すなわち優れた用い方で、人君の珍重すべきことである。村落の間諜とい うのは敵の村落の人々を利用して働かせるのである。敵方からの内通の間諜というのは、敵の役人を利用して働かせるのである。こちらのために働く敵の間諜と は、敵の間諜を二重スパイにさせるのである。死ぬ間諜というのは、虚偽の情報を発して味方の間諜に聞かせ本当と思わせ、それを敵方に伝えさせるのである。 生きて還る間諜は情報を持ち帰って報告するのである。 |
前々から甲賀勤皇隊のことが知りたいと思っていたのだが、藤田和敏博士の著書でやっとわかった。 しかし「えー!そこで裏切るかw」が感想。 江戸時代中期、甲賀古士(戦国時代の甲賀衆子孫)は自分たちがいかに家康公から目をかけられたか散々幕府にアピールし、幕末は血判書まで作って「身命投げうって報国の忠志にはげむ」と老中に心願。 ところが敏感に風向きを察知した古士の一家族が「先祖は大伴氏」だと朝廷にアピールし、他の古士達もわらわらと勤皇倒幕側についた。
引用幕府の家臣の中には開府時に江戸に移住した甲賀衆の子孫も沢山いたろうに。 万川集海には忠について書かれてたりするんだが。 |
【原文】見しは昔、関東諸国みだれ、弓箭を取てやむ事なし。 然ば其比、らつぱと云くせ者おほく有し。 これらの者、盗人にて、又盗人にもあらざる、心かしこくけなげにて、横道(おうどう)なる者共也。 或文に乱波と記せり。但正字おぼつかなし。 俗にはらつぱといふ。
され共此者を国大名衆扶持し給ひぬ。是はいかなる子細ぞといへば、此乱波、我国に有盗人をよ穿鑿(せんさく)し、尋出して首を切、をのれは他国へ忍び入、山賊・海賊・夜討・強盗して物取事が上手也。才智に有て、謀計調略をめぐらす事、凡慮に及ばず。 古語に、偽ても賢をまなばんを賢とすといへり。されば智者と盗人の相おなじ事也。舎利弗(しゃりほつ)も知恵をもつてぬすみをよくせられけると、古き文に見えたり。 乱波と号す、道の品こそかはれ、武士の智謀計策をめぐらし、他国を切て取も又おなじ。扨又載淵(たいえん)と云者盗人也。 陸機と云者舟に乗、長安へ参る時、淵はかりごとをめぐらし、陸機が舟のうちを盗みとらんとす。陸がいはく「汝が器用才覚にては、高位にもすゝむべき人なり。何とて盗みするや」と云時、淵つるぎをなげすて、盗の心をあらためける。 帝聞(きこし)めし「志をひるがへす事切也」と、ほうび有て、めしあげて将軍になし給ひぬ。 是をおもふに、誠に関東のらつぱが智恵にては、神仏とならんも安かるべし。大人(たいじん)にもならず、財宝をもたくはへず、盗人業をえたるこそ、をろかなれ。然に、北条左京大夫平氏直は、関八州に威をふるひ、隣国皆敵たるによて、たゝかひやん事なし。 武田四朗源勝頼・同太郎信勝父子、天正九年の秋、信濃・甲斐・駿河三ヶ国の勢をもよほし、駿河三枚ばしへ打出、黄瀬川の難所をへだて、諸勢は浮嶋が原に陣どる。氏直も関八州の軍兵を卒し、伊豆のはつねが原・三嶋に陣をはる。氏直乱波二百人扶持し給ふ中に、一の悪者有。かれが名を風摩と云。 たとへば西天竺九十六人の中、一のくせ者を外道といへるがごとし。 此風摩が同類の中、四頭あり。山海の両賊、強竊(ごうせつ)の二盗是なり。山海の両賊は山川に達し、強盗はかたき所を押破て入、竊盗はほそる盗人と名付、忍びが上手。 此四盗ら、夜討をもて第一とす。此二百人の徒党、四手に分て、雨の降夜もふらぬ夜も、風の吹よも吹ぬ夜も、黄瀬川の大河を物共せず打渡て、勝頼の陣場へ夜々に忍び入て、人を生捕、つなぎ馬の綱を切、はだせにて乗、かたはらへ夜討して分捕・乱捕し、あまつさへ爰かしこへ火をかけ、四方八方へ味方にまなんで紛れ入て、鬨声(ときのこえ)をあぐれば、惣陣さはぎ動揺し、ものゝぐ(物具)一りやう(領)に二三人取付、わがよ人よと引あひ、あはてふためきはしり出るといへ共、前後にまよひ、味方のむかふを敵ぞとおもひ、討つうたれつ、火をちらし、算を乱して、半死半生にたゝかひ、夜明て首を実検すれば、皆同士軍して、被官が主をうち、子が親の首を取、あまりの面目なさに、髻(もとどり)をきり、さまをかへ、高野の嶺にのぼる人こそおほおかりけれ。 扨又其外に、もとゆい切、十人計かたはらにかくれ、こぞり居たりしが「かくても生がひ有べからず。腹を切らん」といふ所に、一人すゝみて云げるは「我々死たり共、主を討親を殺す其むくひを謝せずんば、五逆八逆の罪のがるべからず。 二百人の悪盗を、いずれを分て、かたきせんや。風摩は乱波の大将也。命を捨ば、かれを討共安かるべし。今宵も夜討に来るべし。かれらが来る道に待て、ちりぢりに成てにぐる時、其中へ紛れ入、行末は、皆一所に集まるべし。 それ風摩は二百人の中に有てかくれなき大男、長(たけ)七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、こゝかしこに村こぶ有て、眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。 かしらは福禄寿に似て、鼻たかし。声を高く出せば、五十町聞え、ひきく(低く)いだせば、からびたるこえにて幽(かすか)なり。 見まがふ事はなきぞとよ。其時風摩を見出し、むずとくんでさしちがへ、今生の本望を達し、会稽の恥辱すゝぎ、亡君亡親へ黄泉のうつたい(訴え)にせん」と、かれらが来る首筋に、十人心ざしを一つにして、草にふしてぞ待にける。風摩例の夜討して、散々に成てにぐる時、十人の者共其中へまぎれ入、行末は二百人みな一所に集たり。然ば夜討強盗して帰る時、立すぐり・居すぐりといふ事あり。明松をともし、約束の声を出し、諸人同時にざつと立、颯(さっ)と居る。是は敵まぎれ入たるをえり出さんための諜なり。 然に件(くだん)の立すぐり・居すぐりをしける所に、なま才覚なるものいひけるは「いかにや人々、兵野にふせば、とぶ雁つら(列)をみだす、といへる、兵書の言葉を知給はずや。爰の山陰(やまかげ)かしこの野辺に、雁の飛みだるゝをば見給はぬか。 風摩が忍び、乱波が草にふしたるよ」とよびめぐれば 「すはや心得たり。 遁(のが)すな討とれ」とて、惣陣騒ぎ動乱しける。馳向て是を見るに、人一人もなし。 く(暮)るれば馬にくらをきひかへ(置控え)、弓に矢をはげ、鉄砲に火縄をはさみ、干戈を枕とし、甲冑をしとねとし、秋三月長夜をあかしかね「うらめしの風摩が忍びや。 あらつらの、らつぱが夜討や」いひし事、天正十八寅の年まで有つるが、今は国おさまり目出度御代なれば、風摩がうはさ、乱波が名さへ、関東にうせはてたり。 http://www.geocities.jp/naoya_820/index-history-local.htm |
正忍記<Amazonリンク 絶版の中島篤巳版はアマゾンで古本に100万の値がついてました。 忍術秘伝書より 著者は、名取三十郎正澄 (藤一水子正武、名取三十郎正武、藤林正武)で、全三巻(序を抜いて)である。 国立国会図書館本は、延宝九(1681)年初秋の三日に書かれたもので、寛保三(1743)年二月(旧暦)に名取兵左衛門(名取三十郎正澄の弟子)が渡辺六郎左衛門に授けた。 忍秘伝<Amazonリンク 復刊ドットコムより 永禄3(1560)年、当時19才であった服部半蔵正成が著したものであるといわれる。 ただ、巻之一の「伊賀甲賀傳記」には永禄3年以降の出来事も記され ており、現在伝わる4巻1冊で成る『忍秘伝』は間違いなく永禄3年以降の著作であるので、『忍秘伝』は ①服部半蔵正成が記したものに補筆したもの ②服 部半蔵正成の著作とみせかけた後世の作 のどちらかである可能性が高い。 現代語訳なしの原文のみですが、頑張って読みたい方に。 |
本スレで「幕末の文書に忍者という言葉があった」、という話が出てたのでとりあえず自分がわかってる限り古い「忍者」という言葉が書かれた文書を出しておく。
萬川集海第一帖の凡例のところ。 読み方が問題になってるようだけど、忍と者の間にノがないからニンジャでいいんじゃないかと思うけどわからん。 あと萬川集海の原文はネットに全部あったりする。 http://ninjutsu.robertk.com/Bansenshukai/ 現代語訳より先に英訳が出そうだね。 ところで画像のページの2行目に「盗賊ノ術」とあるけど、崩残さんのサイトの伊賀忍術博物館からのメールでこんな記述があって面白い。 「江戸中期に伊賀者の間で、 忍術伝書『萬川集海』の貸し借りが行われていたという 証拠となる起請文が残っているのですが、そこに 「盗賊をはたらくために忍術や忍器を使わない」 と書かれている項目があり、 まるで盗賊が忍術を使っていたかのような記述がなされています。」 外国人にとって忍術とは格闘技の一種 日本人にとって忍術とは妖術の一種 みたいなイメージがあるけど、現実にはドロボーみたいなもんだったんじゃなかろうか? そうすれば石川五右衛門を忍者とする小説が作られたのも理解できる。 |