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*九鬼神流を神代からの古伝と称し、「神代文字で書かれた伝書」を作成している、怪しげな系統が複数存在するが、この主張の論拠としているのは、九鬼家に伝わっていたと称する偽書『九鬼文書』の武術篇に高木流の伝書そのままの内容が記されていることである。
この『九鬼文書』は、大正時代に九鬼隆治が設立した宗教団体「皇道宣揚会」の教典とされたもので、現在でも教典または教義の参考書として使っている古神道系宗教団体があるようだが、「エヂプト」だの「伊恵須」(イエス)などといった明治以降に使われた用語の怪しげな記述のある文献で、古文書というにも値しないものである。 問題の武術篇の成立には高松寿嗣が関わったという説もある。 だいいち、九鬼家の家伝の流儀は、九鬼神流ではなく、三田藩第8代藩主・九鬼隆邑より明治時代の九鬼隆輝まで伝えられた起倒流九鬼派である。 http://kobe.cool.ne.jp/ikkansai/takagiryu.htm 「九鬼文書」:昭和16(1941)年、三浦一郎「九鬼文書の研究」の出帆により世に知られるようになった文書。熊野神社宮司九鬼家に代々伝わる古文書と言われているが、証拠はない。 内容:神代史と九鬼神道の教義。 形式:九鬼神道部分は変体仮名(九鬼文字)。神代史は竹内文書と一部重複。 その他:昭和10(1935)年12月に弾圧された新興宗教大本教と関連あり。 結論:三浦一郎の執筆したもの http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/5368/past/593-.html 『九鬼文書』4つの特色 この文書を継承してきた九鬼(くかみ)家は、大中臣(おおなかとみ)神道の宗家で熊野別当宗家でもあり、古代末、中世から近世にわたって日本最強の九鬼水軍を率いていた名門(戦前は子爵)である。 また、この文書の主要部分を公開した三浦一郎(『九鬼文書の研究』の著者)は、戦前最大の民間宗教の一つであった大本教のブレーンでもあった。 この文書の記載年代は、宇宙開闢(かいびゃく)から明治時代に及ぶが、奈良時代以降の部分は、後世、書き加えられたものである。 最もその伝承は、神代文字で記されていたが、それを藤原不比等が漢字混交文に翻訳したとされている。 それに、後代、筆写の際、神道・修験道・密教、そして兵法などの秘伝・秘法を加えたため、全三十巻構成のものとなったらしい。 (1)出雲王朝の正統史観 これは記紀系列の史書と異なる重要な史観といえる。つまりスサノオノミコトをアマテラスの上位におくという伝承は国つ神を天つ神の上位におくということであり、先住民史観とも言える。 (2)ウガヤ朝の存在 これは『竹内文書』『宮下文書』『上記』とともに本書の特色であり、そこからこれら四書をウガヤ文書としてくくることが出来ることについては既に述べた。 だが、このウガヤ朝72(73)代は謎の王朝である。弥生時代(約6世紀)に、この王朝だけ1200余年も続いたということは考古学的にもありえない。にもかかわらず、『九鬼文書』だけでなく、 ウガヤ文書四書とも、この長期王朝の実在を記している。 (3)聖徳太子批判 これは太子が仏教受容をめぐる政争で蘇我氏側に立って、物部・中臣氏を失脚させたとき、「太古代史」(竹内宿弥が書いたという)を焼き、新たに国史を編纂した点に集中している。 蘇我氏と密着した太子の行動については、江戸時代から「崇峻天皇殺し」という批判が無いわけではなかったが、歴史の抹殺━偽造者として太子を真っ向から批判したのはこの文書だけである。 なお、物部・中臣氏追放の政変の際に、「太古代史」の焚書がなされた。 だが、そのとき、いくつかの写本が越前の武内(竹内)氏、奥州に逃れた物部氏、さらに信州に逃れた中臣・春日氏らの手に残り、それらが、いわゆる「竹内文書」「九鬼文書」「物部文書」、 それに存在がまだはっきりしない「春日文書」の原本になったことが示唆されている。 (4)古代における日本とユダヤとの交流 古史古伝では、この「九鬼文書」と「竹内文書」、それに未公開、所在不明の「安倍文書」がこの問題に直接触れている。 なお、ユダヤの預言者や救世主だけでなく、インドの釈迦も日本系の人間だとしている点も見逃せない。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage20.html 相当トンデモ臭いんだけど、作成に九鬼氏の人が関わってるからメンドイね。 こっちは身内が書いたと思われるもの。 http://www.shinjin.co.jp/kuki/hyoho/mystic.htm PR
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藤林家由緒書の件で、藤林長門守が今川義元に雇われていたと記載されているらしいという話があって、これについて調べていたら、鈴木眞哉先生の本に、今川方の岡部信元は三河刈谷城攻めで
「大久保彦左衛門の三河物語には、今川方は伊賀集を忍び込ませて信近の首を討ち取ったが、城兵に反撃されて、伊賀衆も八十人討ち取られ、信近の首も取り返されたとある。」 という記述を見つけた。 とりあえずメモ |
爆笑問題のニッポンの教養
FILE133:「江戸時代のTwitter」 2010年12月14日放送 http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20101214.html 稀代の古文書ハンター磯田が現在、研究をすすめているのが「忍者」だ。記録を残さないからこそ忍者なのだが、「記録がないから研究しないというのは歴史学者の敗北だ」と、次々に貴重な資料を発掘。 毒殺に使う薬の製造法から、意外な引退の理由、出陣の際けっこう派手な衣装を着ていたことまで、これまでの常識を覆す驚きの実態を明らかにしつつある。 これ御軍役までは読めるけどあとはわかんないなあ。 忍者装束は青い陣羽織。 もうこの頃には忍者が役職名になってたのね。 最後の伊賀出身忍者荻野さん。 こういうこともあるでしょう。 番組にでてくる伊賀路濃知辺に関してはすでに新聞発表されてたみたい。 http://blog.goo.ne.jp/i-izumi1120/m/201007 以下引用 磯田道史氏の「古今をちこち」というコラム。 忍者について書かれていた。 『伊賀路濃知辺(いがじのしるべ)』という、 徳川家康に使えた伊賀忍者衆の由緒書である。 (↓以下「古今をちこち」から) >天正10年(1587年)~元和元年(1615年)大阪夏の陣 徳川家康に採用された忍者200名。 12度の合戦で「討死之者」75人。(すべて名前が記載されている) 特に本能寺の変の後、 家康が甲斐信濃を平定し、豊臣秀吉と対峙した時期の合戦に 「伊賀者大勢討死」。 ◎忍者死亡状況 天正12年尾張の蟹江城攻め。 城攻めで敵城の石垣に取り付くことを命じられ、 上から鉄砲で撃たれる。 ◎埋葬 討死の者75人、その御陣場近辺の寺々へ遣わされ銀子を下し置かれる。 ◎忍者の給料 普通の忍者の予相場 高40~70石。 (甲賀者、他の大名家の忍者など) 伊賀者ひとりあたり高10石。 (現代において 年俸100万円前後) 土地にて与えられる。 喰えない忍者は領地を自分で耕した。 |
ときどきこういう話って出るね。
ヤフー知恵袋のこの方がいつもなるほどな回答をしてくれる。 ベストアンサーに選ばれた回答 ベストアンサーに選ばれた回答 私も藤木先生の本は一番いいと思います。 先生の本に忍者は出てこないけど、忍びと悪党は出てきます。 つまり後世忍者と呼ばれたカッコイイ人達は、実際は略奪や放火ばっかしてたろくでもない人達だったんだよ、ってことですね。 自分もいつから悪党が忍者に変化したのか謎だったんですが、別に変化なんてしてなかったと。 それにしても甲陽軍鑑てそんなにダメダメな史料なの? 望月千代女もフィクションなのか!? |
「伊賀者」と言えば、直ぐさま忍者を想像される方も多いであろう。しかし、「伊賀者」すべてが忍者であった訳ではない。 伊賀衆が最も活躍したであろう中世、特に戦国時代の史料によると、彼等は数百人を単位として、周辺の大名権力に合力する戦闘の専門集団、「傭兵」とも言うべき姿が見えてくるのである。伊賀国に隣接する、奈良興福寺の別院大乗院の門跡であった尋尊(じんそん)の日記から、まず見てみよう。 1482(文明14)年10月、大和国の国人らの抗争に関わって、伊勢国司北畠政勝の舎弟坂内房郷が大将となり、長谷寺に出陣した。軍勢の数は七百人を称したが、実数は三百人程だったようで、しかもそのほとんどは伊賀衆であった。また、同17年10月14日の記事によると、山城国内にあった畠山義就方の城のうち、二ヶ所の城を「伊賀国人」が守備していたことも記されている。 こうした記事は、他の史料でも確認することができるが、中には、いかにも「忍者」を彷彿とさせるような記事もある。 例えば、『多聞院日記』1541(天文10)年11月26日の記事には、笠置城に忍び込んだ伊賀衆が、建物などに放火したことが見えており、「忍者」のイメージそのものと言える。さらに、次に紹介する『小槻時元記(おづきときもとき)』に見える記事は、「伊賀者」の卓越した戦闘力の高さを示すものでとして興味深いものがある。 1502(文亀2)年2月14日、京愛宕山の山伏が中心となり、伊賀国内に攻め入った。原因は、百姓衆の緩怠を責めた伊賀国人衆に対し、百姓衆が愛宕山に助けを求めたことにあった。討ち入った愛宕勢は四百人余りとあることから、かなり本格的な攻撃であったと見られる。しかしその夜、伊賀国人衆が愛宕軍の陣に攻撃を仕掛け、一晩でそのほとんどを討ち取ってしまったのである。「一戦に及ばず、悉くこれを討ち取る」とあることから、戦闘は、まったく一方的な展開であったようである。よほどこの事件が印象に残ったのか、日記の記主も、「奇異之事也」と結んでいる。 近世に成立した忍法書『萬川集海』の冒頭には、「陰忍ノ上手」として、「楯岡ノ道順」や「上野ノ左」「音羽ノ城戸」など、講談や小説、また、かつてブームを呼んだ忍法漫画などにも登場する、お馴染みの「忍者」名が記されている。ただし、彼等を実在の人物であったと即断するわけにはいかないことは言うまでもない。 ただ、『享禄天文之記』によると、1561(永禄4)年閏3月、奈良の十市城を攻撃した伊賀衆を率いたのは「木猿」という者であったと記されている。そして、先の『萬川集海』中にも「下柘植ノ木猿」の名が見えているのである。両者を同一人物と見るか否かはひとまずおくとして、少なくとも当時、「木猿」という伊賀者に率いられた伊賀衆が城を攻撃したことは事実である。限りないロマンを感じないではいられない。 (県史編さんグループ 小林 秀)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=203 |
ひきつづき上野市観光協会発行の「忍術の歴史」の内容を検証します。
第三部 徳川期以降の忍術 *吉宗は若い頃不良で仲間と悪事を働き当時山田奉行であった後の大岡越前守に捕らえられ説教されて釈放。吉宗、大岡に惚れ込む。 時代劇の見過ぎではないか? ちなみに紀州藩主時代の吉宗が大岡の裁きに惚れ込んでスカウトしたという話は後世の創作だそうだ。 *大岡越前守は根来忍者を使っていた。 紀州にいたから根来、という単純な創作。 吉宗~大岡~根来、は時代劇の鉄板ですな。 *(原文でいきます)幕末に実行された忍術として、薩摩藩の庭番出身の西郷吉之助(隆盛)と益満休之助が、慶応年間、江戸の藩邸(三田)で大忍術を使い、江戸市中に大混乱を巻き起こした事件があった。 伊勢神宮の神符降下事件がそれである。 これにはフイタ。 伊勢神宮のお札が降ってくるってやつは「ええじゃないか」ですね。 これが忍術の仕業でしかも西郷さんがやったとか、頭沸いてるとしか言いようがない。 *幕府はその混乱を鎮めるために「新選組補充部隊60人」を使うことになり、新選組の戦力が大衰退した。 省いてある途中の文脈からすると、薩摩藩が江戸で行っていたテロ行為(これは事実)を鎮めるために新選組補充部隊を使ったとあるが、これはもちろん事実ではない。幕府が使ったのは新徴組でこれは元は新選組と同じ浪士組であったが、京都に残ったものが新選組となり、江戸に戻ったものが新徴組になった。新選組が隊士を関東で補充するときは近藤や土方が出向いて直接面接している。伊東甲子太郎もこれで入隊した。 この本はとにかく歴史上の人気ヒーローと絡ませたくて仕方ないのである。 *このような雄大なスケールの忍法で倒幕の実現を早めた。 何でも忍者の手柄にしたいのか。 第四部 政略家、上、中、下忍と武芸者の系譜 この項では名だたる戦国武将をほぼ全て忍者認定している。 頼朝や吉備真備まで忍者にされている。 また"忍術(兵法)"などと記載し意図的に忍術と兵法一般を混同させることにより、塚原卜伝まで忍者にされる有様。 第五部 日本兵法の敗北とその原因 *兵学の基礎を孫子によらず日本兵法(山伏兵法)に置いたから。日本兵法の特徴は先生奇襲攻撃による即戦完勝。 奇襲した真珠湾攻撃は成功してなかったか? 日本が負けた原因は伸びすぎた兵站(いつもこのパターンだが)と物量差、遅れた兵器(これもいつものパターンだ)、こんなとこが現実だろう。 *日本が経済大国として再生したのは企業が国際競争に勝つための調、謀の知略戦を行っていた。この頭脳忍法には日本が生み出した忍術の技法が最も適したいるのである。 これは産業スパイで日本が成功したと言ってるのだろうか。 ヒドイなあ。 大企業に恨みでもあるのだろうか。 最後に忍具図説があるのだが、万川州海にさえ載っていない忍び刀が出ている。デマはこういうところから広がるのだ。 「忍術の歴史」「奥瀬平七郎」でぐぐると悲しくなる。 |
忍術の歴史 奥瀬平七郎著
第一部 孫子の兵法と山伏兵法の完成 *忍術の起源は孫子兵法。 よく言われるのは忍術の元は孫子の兵法に記載された五間。 しかしこの五間の記載は非常に短くて、万川集海などの忍術伝書と比べるとこの膨大な忍術と孫子兵法の五間にいかほどのつながりがあるのかと思わざるをえない。孫子兵法は武力衝突の前に謀略することを勧めているのだが、これは戦国時代普通に行われていたことで、これをもって謀略に関わる人全てを忍者認定してしまうとエライことになる。孫子兵法は何も忍者だけでなく武将にも好まれていたわけだから、忍術の起源が孫子兵法なら武門に関わる全てのことが孫子兵法起源と言えてしまう。 が、この辺りは忍者マニアがよく言うことなのでトンデモとまではいかない。 *役行者が行基を助けて山伏たちと一緒に50年間官兵と戦って山伏戦法を編み出した。 これ全くの創作でしょう。 役行者と行基は34歳離れていて行基が役行者の業績をたどったという話はあっても二人が一緒に何かしたというのは見つからない。 役行者が武力衝突をしたという話もない。(というか伝えられる役行者の話は宗教人なためか9割方伝説の域を出ない) 修験道と忍者を結びつける記述がよくみられるが、修験道の何が忍者の何と結びついたのか、修験者が誰に対し何のために武力衝突を起こしていたのか、またはそのような記録があるのかという説明が常に抜けているのである。 いつも伊賀甲賀のあたりには修験道の山や寺があるから、程度の理由でこの話は締めくくられてしまうのである。 役行者が開基した飯道寺が甲賀にあるため役行者と忍者というふたつの「オラが村の名物」を結び付けたいのが実際だろう。 この本では以降この空想の「山伏兵法」なるものを忍術の元として引用している。 「山伏兵法とは孫子兵法に武術の技術と理論が加えられ渾然一体としたもの」 いつのまにか武術が混ぜられる始末。 *山伏が日本全国に塾を開き庶民や貴族の子弟に兵法や武術を指導。それが武士発生の基板。 こういう全く根拠のない妄想理論を面と向かって言われるとどこぞの半島を思い出してしまう。 *その山伏塾から出た有名な大忍が源義家と平将門。 ゆんゆんしてきました。 *坂田金時(金太郎)も忍者 はいはい *禅宗がもたらされ、座が形成され、座の名人養成のため禅僧と同じ徒弟制度を採用して、忍術が山伏兵法から独立した。 さっぱり意味がわかりません。 禅、座、忍者を結び付けたいだけの強引な妄想。 第二部 伊賀流忍術の発生と終焉 *山伏塾卒業第一期生は藤原千方。千方の四鬼とは山伏によって編成された奇襲攻撃部隊。伊賀ではすでに忍者部隊を創出していたのだ。 藤原千方は伊賀地方で有名な伝説上の人物ぽい。 伝説の四鬼を無理やり四部隊にしてしまうあたりがクリエイティブ。 伝説と史実の混同は忍者与太話には欠かせない。 *伊勢三郎も伊賀の忍者 伊勢というからには勢州出身という伝説はあっても伊賀というのは聞かない。近所の有名人は皆忍者ですか。 *山伏塾出身の服部家長は芸能人や香具師の諜報組織をつくり日本随一の忍術組織を手中にした。 服部半蔵の祖先と言われる人だが、この人に関する史料は源平絡みのものしかないと思う。どっから出てきた話なのか。 ちなみに家長は壇ノ浦で死んでいる。 ところがどっこい生き延びて伊賀に移り住み伊賀服部氏の祖になったというのだが、この「実は生き延びて」っていうのは義経ジンギスカン説とか原田左之助満州馬賊説とかアレな感じがするのは否めない。 *平家滅亡後家長は忍者組織をふたつに分けて温存。息子三人を源氏に寝返らせ平宗清(伊賀柘植氏の祖)を通じて服部家の保全を源頼朝にとりつけた。 「実は生き延びていた説」では源氏の追討を避けるために苗字を服部から千賀地に変えたというのに、服部家の安泰を約束されたのなら変名する理由がなくなる。 *楠木正成も山伏塾出身の忍者 はいはい *百地三太夫は石川五右衛門を伏見城に潜入させ秀吉暗殺を謀ったが失敗。五右衛門はそのために処刑される。 これが例の五右衛門忍者伝説。 もちろんすべて想像。 とにかくこの本からは忍者といろんな有名人を繋げたいという願望がひしひしと伝わってくる。 朝鮮忍者がこだわっていた秀吉と忍者の反目はこのあたりの妄想がソースだろうか?■■■ Part2へ |
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