*厳密には御庭番と忍者は別物ということは置いといて。
小松重男著『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就(ながたか)の生涯』(中公新書)という本から、御庭番の仕事の内容が伺われる記述を抜粋。
http://ninjer.blog.shinobi.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E5%BF%8D%E8%80%85/%E5%BE%A1%E5%BA%AD%E7%95%AA%E5%B7%9D%E6%9D%91%E4%BF%AE%E5%B0%B1御庭番川村修就
P.7
川村清雄氏(修就の嫡孫で、明治四年より同十四年まで徳川家と新政府の給費留学生として十一年間も欧米へ遊学した洋画家)から、「じいは 笹屋という江戸の飴屋に化けて新潟の抜荷を探索したそうな」と聞かされたという。川村家の紋所が"九枚笹"だから「笹屋」という屋号は、なるほどと思わせ る半面、できすぎの感も否めない。
この報告書の内容から、探索地域があまりにも広範囲にわたって、しかも報告が詳細を極めており、とても一人や 二人で探索したものではない。察するところ、御庭番以外の、もっと陣容の大きな秘密情報機関のメンバーを動員して調べ上げた事柄を、修就がねんごろに聴取、整理、執筆したというのが実態ではないだろうか。
P.19
つまり、この報告書は、長岡藩府の重要書類を写しとった可能性も大いにありうるほど不自然に正確なのである。だから、安直に旅籠屋の亭主などから収集した風聞ではないことは明白である。相応の人員を投入し、かつ必要十分な時間を費やして調べ上げた報告書である。
P.105
巷 間伝えられているように、遠国御用を命令されるや自宅へも寄らず、その足で某呉服店へ赴いて変装するなり目的地へ向かう、などということは、今回のように 火急の場合ですらなかった。通信手段の発達した現代であればともかく、当時は、現地へ着いてから問い合わせることなど不可能だったのだから、どんなに急ぐ ときでも一両日は江戸で予備知識を仕入れるなど、必要最小限の準備をしなければ、とても出発できなかった。
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