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【2024/04/25 05:15 】 |
磯田道史准教授の江戸時代のTwitter
爆笑問題のニッポンの教養
FILE133:「江戸時代のTwitter」
2010年12月14日放送
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20101214.html

稀代の古文書ハンター磯田が現在、研究をすすめているのが「忍者」だ。記録を残さないからこそ忍者なのだが、「記録がないから研究しないというのは歴史学者の敗北だ」と、次々に貴重な資料を発掘。
毒殺に使う薬の製造法から、意外な引退の理由、出陣の際けっこう派手な衣装を着ていたことまで、これまでの常識を覆す驚きの実態を明らかにしつつある。

これ御軍役までは読めるけどあとはわかんないなあ。


忍者装束は青い陣羽織。
もうこの頃には忍者が役職名になってたのね。


最後の伊賀出身忍者荻野さん。


こういうこともあるでしょう。


番組にでてくる伊賀路濃知辺に関してはすでに新聞発表されてたみたい。
http://blog.goo.ne.jp/i-izumi1120/m/201007
以下引用

磯田道史氏の「古今をちこち」というコラム。

忍者について書かれていた。
『伊賀路濃知辺(いがじのしるべ)』という、
徳川家康に使えた伊賀忍者衆の由緒書である。

(↓以下「古今をちこち」から)

>天正10年(1587年)~元和元年(1615年)大阪夏の陣
徳川家康に採用された忍者200名。
12度の合戦で「討死之者」75人。(すべて名前が記載されている)

特に本能寺の変の後、
家康が甲斐信濃を平定し、豊臣秀吉と対峙した時期の合戦に
「伊賀者大勢討死」。
◎忍者死亡状況
天正12年尾張の蟹江城攻め。
城攻めで敵城の石垣に取り付くことを命じられ、
上から鉄砲で撃たれる。

◎埋葬
討死の者75人、その御陣場近辺の寺々へ遣わされ銀子を下し置かれる。


◎忍者の給料
普通の忍者の予相場 高40~70石。
(甲賀者、他の大名家の忍者など)
伊賀者ひとりあたり高10石。
(現代において 年俸100万円前後)
土地にて与えられる。
喰えない忍者は領地を自分で耕した。
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【2010/12/16 12:54 】 | 歴史の中の忍者 | 有り難いご意見(2)
<<今川義元の伊賀者 | ホーム | 忍者はいなかったのか?>>
有り難いご意見
読売新聞の古今あちこちについて
先生の記事で、上泉伊勢野守の孫の権左衛門について興味があり。 調べたいのですが
文献をお教え頂ければ有り難いのですが
さらに、藩主・直孝の元を去り、尾張徳川に仕えた件も調べたいのですがお教え頂ければ幸いです
【2013/05/15 21:53】| | 立田 哲夫 #56a4ff27be [ 編集 ]


無題
コメント欄全然チェックしてませんでした、遅くなってすみません。
あいにくその人について調べたことがないのでわかりません。
尾張なら愛知県立図書館、名古屋市立図書館あたりを漁ってみると良いと思います。
【2013/09/21 11:31】| | Buffon #90ab98a6b9 [ 編集 ]


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