忍者ブログ
  • 2024.03
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2024.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/04/20 16:29 】 |
ChosonNinja VS tayounorise
I saved some screen shots before tayounorise deleted comments.
ta1.jpg




cho1.jpg




cho2.jpg


ta2.jpg


ta3.jpg



cho3.jpg




ta5.jpg



cho5.jpg



ta4.jpg


cho4.jpg



cho6.jpg



ta7.jpg




cho7.jpg

ta8.jpg




cho8.jpg


ta10.jpg


cho10.jpg



ta13b.jpg



ta8b.jpg

cho9.jpg

ta11.jpg




ta13.jpg


ta14.jpg



ta15.jpg



ta16c.jpg



naka1-tai16.jpg

ta17.jpg

naka2-tai17.jpg

ta18.jpg

ta19.jpg


ta19b.jpg




PR
【2010/07/30 16:00 】 | ChosonNinja | 有り難いご意見(6) | トラックバック()
<<Was America Korean territory ? | ホーム | Comments on Was Manchuria Korean territory?>>
有り難いご意見
ババ対策 孫子について
図書館に行っきたので、
お役に立つかどうか分かりませんが、ついでに引用しときます。

~以下引用~

『日本武道全集 第四巻』

忍術 (P403~)

二 体系化された忍術

 忍術は以上のように人類の歴史とともに古いが、
これが体系化されるのは、もちろん人類が歴史をもつようになってからであり、
成文化されるのはさらにいっそうのちのことである。
 東洋で軍陣理論を成文化した最初の人は、
中国の春秋戦国時代(紀元前七七○~前二二一年)の人孫武である。
彼の書いた『孫子』十三篇の最終篇「用間」は、
彼我戦いを交える前の敵情の実体把握、心理作戦のために「間」を用いる方法を説いたものである。
「間」は「間諜」の意である。「用間」すなわち間諜を用いるの意である。
彼我の緊張関係の間隙を縫って敵中に潜行し、
敵の兵力、その配置や士気、作戦をさぐり、地理・地形を調べ、民心の帰趨をさぐる。
またそれは人心の離間、糧道の遮断等その他さまざまの撹乱行動によって
敵の戦力源を破壊する諜報・謀略任務をもつものである。
『孫子』の兵法は八世紀のはじめ、わが聖武天皇の天平七年三月、
在唐十七年の留学生生活を終えて帰朝した吉備真備が、
『呉子』・『六韜』・『三略』・『諸葛亮八陣』とともに伝えたものだといわれている。
もっともこれが孫子伝来の最初であるかどうかは明かでない。
なぜならば、日本はすでに紀元前一世紀ごろから大陸文化を受容しているからである。
しかし信ずべき記録が見当たらない限り、吉備真備以前の伝来については想像の範囲を出ないといってよい。
すでに述べたように、しのびのテクニックは、理論に先行して人類の生活とともにあり、
いわば一種の生活の知恵として発展したものである。
記・紀その他の古い文献には、忍術的な記事が散見されるけれども、
それと『孫子』の「用間」の内容と結びつけることは問題であろう。
『孫子』の用間理論は、日本では、いわゆる「兵法学」の内容として発展したと考えるべきであろう。

(P406~407)


~以上引用~

六韜の「韜」の字は印刷では本当は左側が「革」ですが、
変換できないので異字体で代用しています。
諸葛亮の「葛」も印刷では古い字体(?)ですが、変換できないので新しい字体にしています。

取り合えず、最後三行が重要ですね。
【2010/08/22 06:01】| | 鏡神宮 #92ca4cd58b [ 編集 ]


無題
VECこと、チョさんはしきにりに
「朝鮮と中国の学者がどうのこうの」
言ってるので、ついでにこんな本も借りてきました。
『中国からみた古代日本』王仲殊 著

中国人の学者さんが書いた本です。
また、今度いくつかここに引用しようかと思います。
【2010/08/22 06:49】| | 鏡神宮 #92ca4cd59d [ 編集 ]


無題
前述の本を色々引用しようかと思ったのですが
(特に、好太王碑/広開土王碑の石碑文の解釈を巡る戦後の論争から、著者自身の解釈、
倭の五王についての客観的な解説、
日本という国号の話)
記述が多岐に渡っている為、ちょっと難しいです。すみません。


興味のある方はご一読下さい。
中国側の歴史・史書と照らし合わせて書いてあります。


【2010/08/26 19:54】| | 鏡神宮 #56b710e5dc [ 編集 ]


無題
少しだけ引用。

『中国からみた古代日本』 王仲殊 著

二 倭の五王とその前後の世紀 (P59~)

1 いわゆる「空白の四世紀」

(P63~64)
前略~
 さて考古学者の間では、日本の古墳のルーツを大陸に求めるのが習慣のようになっており、それはそれで根拠のないことではあるまい。
しかし古代中国の統治者も壮大な墳丘墓を営む習慣があったとはいえ、その墳丘の形態には方形と円形のものが多く、いわゆる「前方後円墳」は皆無という状況である。
一九八一年の春、私は東京で開催された国際古代史討論会に出席したが、そのおり日本の研究者から、河南省密県の打虎亭漢墓を前方後円墳とする説の是非について、度重なる質問を受けた。
その時の私の回答は、完全に否定的な立場に傾いていた。
東アジアの考古学のさし示す状況から見て、前方後円墳は古代日本に特有な墳墓の形態であり、「空白の四世紀」に形成されはじめた日本独自の政治・文化の状況がそこに反映されていると断言しても、何ら差し支えはないだろう。
 すでに何度も述べてきたように、いわゆる「空白の四世紀」は、当時の倭国と中国の関係を表現した言葉である。
「中国の大乱」のために両国の関係は長期にわたって断絶し、その結果、中国の歴史書から倭国と倭人に関する記載が消え去ってしまった。
しかし四世紀の倭国はその国力を大いに増大させており、東アジアの国際政治の舞台に何らの出番も持ちえなかったとは到底考えられない。
事実、倭国と朝鮮半島の関係は、四世紀にいたって「充実の世紀」を迎えている。
『古事記』や『日本書紀』に記された、応神・仁徳両朝における高句麗・百済・新羅・任那などとの交渉の様子は、修飾と誇張を含んでいるとはいえ、全くの虚構とはいいきれまい。
石上神宮の七支刀に残された銘文は、倭国と百済との密接な関係のみならず、倭国と東晋王朝との国交が積極的に準備されていた様子をも伝えくれる、貴重な史料である。
【2010/08/26 19:57】| | 鏡神宮 #56b710e5dc [ 編集 ]


前述の本
倭の五王と関連して日本側の朝鮮半島に対する野望や、宋との朝鮮半島を巡るやり取りについて。
倭国の度重なる要求を受けた宋王朝は、何度か口実を設けて拒絶を繰り返したものの、
最後には宋の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)を
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じている。
それでも宋王朝は「都督百済諸軍事」の権利だけは絶対に認めなかった。
一方、倭王の自称にはこれに百済も含まれている。
倭は高句麗を敵国視すると同時に、百済・新羅を自国の藩国と見なしていたようである。
実際に新羅については宋王朝から与えられた「都督新羅諸軍事」の権限から、倭が新羅を自国の藩臣に位置づける名分が整っている。

任那に日本が軍事拠点を設けていた事は確かであろう事。
(「任那日本府」という名称に関しては後の世になってから付けられたものではあるが、
だからと言って任那日本府の存在そのものを、記紀の誇張表現であり虚構の存在であるとするのは間違いである、
また戦前の日本側の征韓論に任那日本府が利用されたからと言って、
それを嫌う余りに任那日本府を完全否定しようとする学者もいるが、
著者は戦後のこう言った研究者の極論を一蹴している)

新羅の強盛により562年、日本は朝鮮半島南部、任那での拠点を失った。

朝鮮半島の国々は中国へ必死のありさまで朝貢していたが、
一方で日本は中国へ朝貢するかどうかある程度の自由があった事。(これは日本が島国なので中国の軍事的脅威が直接及ばない為にできた事である)
実際に日本と中国の外交は度々途切れている。

その地、やはり地理的要因と、隋と高句麗との緊張関係を利用した聖徳太子の対等外交政策と隋の反応。
日本という国号の話も詳しく出ています。
(当たり前ですが、チョが主張した日本の国号はウリナラ起源、とかいう馬鹿気た話は一切出てきません)

古代中国~高句麗、百済、新羅の力関係の変遷と、日本の勢力を視野に入れた、それらの国々の立ち回り方などの解説もあります。

百済文化は大きく中華文化に因るものがあるという事。
その結果、百済は文化的に大いに大成したであろう事。
また百済は中国とより親密であって、日本とも友好関係を築いていた事から、文化面では中国と日本との重要な橋渡し的存在であった、
地理的にも百済はそう言った役割を演じ続けた。

また日本が中国とのやり取りに半島を経由しない、独自のルートを持っていた事や、遣隋使・遣唐使の話。
百済が日本との友好関係を保ったのは半島での勢力図を睨んでの事。

四世紀の末から倭国は新羅へ侵攻し、新羅は高句麗・好太王の保護下に身をひそめざるをえなかった。
墓の出土品から、新羅には中華文化に影響されない独自の文化が、ある程度まで備わっていたらしい事が分かっている。

660年、唐・新羅連合軍により百済は滅亡。
663年、白村江の戦いで百済遺民を支援した日本も潰走した。

倭国、被害甚大。
これにより、倭国は朝鮮半島における政治的、軍事的な一切の力を失った。

その際、中大兄皇子(後の天智天皇)は勝ち戦に乗じた唐軍の襲来にそなえ
大量の人員と物資を投入して最前線の対馬・壱岐・筑紫などの地域に防人を増員し、
のろし台を設けると共に太宰府に延長一㌔に及ぶ「水城」を築いた。
また日本へ亡命してきた百済の貴族、憶礼福留(おくらいふ)が、太宰府北方の大野山と南方の基山に朝鮮式山城を建造した。
(チョが言ってたのはこの事ですね。Buffonさんが既に動画を作成済みですが)

憶礼福留はその後、日本の朝廷から官位を授けられ朝廷に仕えた。
天智天皇(中大兄皇子)は白村江の戦後処理の一環として百済から亡命してきた約三千人の男女を東国と近江の国に定住させるように取りはからっている。
大津に遷都してからは、さらにその中の七〇〇人余りを近江の蒲生郡に移している。
等々。


内容としては非常にニュートラルだと思います。
なお、著者は七支刀については献上説も下賜説もそのいずれも否定しています。また、広開土王碑の項は大変興味深いです。
【2010/08/30 09:59】| | 鏡神宮 #56b710e636 [ 編集 ]


RE: 『中国からみた古代日本』
鏡神宮さんが取り上げた本、私も借りてきてサラッとではありますが読んでみました。

>内容としては非常にニュートラルだと思います。
確かに政治的に偏ったところはなくて好印象でした。この辺は韓国の学者とは違いますね。

>広開土王碑の項は大変興味深いです。
私もその項が一番面白かったです。解読にかける情熱が伝わってきますよね。
【2010/09/07 23:49】| | 不純なマゼンタ #986e69d93c [ 編集 ]


貴重なご意見の投稿














虎カムバック
トラックバックURL

<<前ページ | ホーム | 次ページ>>