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Ninja in Edo period - Latest Ninja research from Japan


龍爪色のブログより
2009年5月29日(金)読売新聞朝刊 磯田道史の『古今をちこち』より

忍者の話をしたい。忍者の学術的研究は困難だ。そもそも忍者は忍ぶものだから記録に残ってはいけない。記録がないものは歴史学の対象にならない。だから忍者の研究は深井雅海(ふかいまさみ)さんの幕府御庭番(おにわばん)の研究があるぐらいだ。しかし隠れられれば知りたくなるのが人情。忍者の実際を知りたくなった。

 そこで先日、腕を組み、忍者を調べる方法を思案した。「忍者も武士。藩の役所に親子代々の履歴書を提出するはず。それを押さえれば、活動実態がわかるに違いない」と考えた。しかしその忍者の履歴書がみつからない。
 江戸時代の藩士名簿を「侍帳(さむらいちょう)」という。まずこの侍帳で忍者を探すことにしたが、果たして忍者の本名を記載した侍帳が存在するのか心配になった。ところが、あった。しかもネット上に。岡山県は旧岡山藩池田家の侍帳の画像を公開している(「デジタル岡山大百科」)。そこに忍者の名前が載っていた。ネット社会はすごい。忍者の実名までネット上で情報公開される時代になったのだ。
 慶長18(1613)年、宝永期(1705年頃)、嘉永期(1850年頃)の侍帳に忍者の名前がある。平和な時代になって、忍者は減ったらしい。侍帳から忍者の数を数えてみると、1613年61人→1705年頃17人→1850年頃10人と激減。大阪冬の陣の前年に61人いた忍者は、その後、池田家の領地が減らされたこともあって17人に減り、幕末のペリー来航時には10人になっていた。
 忍者の呼び名も伊賀者(いがもの)→忍衆(しのびしゅう)→御忍衆と変化。慶長期は臨戦態勢で61人のうち頭目2人しか名前は書かれていない。しかし江戸中期からは忍衆全員の名前が侍帳に載っている。これでは誰が忍者かわかってしまう。天下泰平のなか忍者は忍ばなくなったようだ。忍者に堕落が見られる。
 だが、そのおかげで私は忍者の研究ができる。―中略―岡山藩士についてはほぼ全員の履歴書(奉公書ほうこうがき)が残され、都内でも早大等でマイクロフィルムの閲覧複写が可能。とうとう忍者たちが親子代々250年書き継いだ履歴書が出てきた。私は慌てて解読をはじめた。
 江戸初期から明治まで、岡山藩の忍衆の実態がわかる。先祖はみな伊賀の出。天正伊賀の乱などで浪人。忍びの技で諸大名に雇われ、主君を変えるたびに名字を変えているのが面白い。また忍者は銃に強く関ヶ原合戦や大坂の陣では狙撃兵として大活躍。1660年頃までは、よく訓練もしたようで高所から落下したのか「打身痛」で引退を申し出た忍の記録もあった。この頃まではキリシタンや博打(ばくち)の捜査に使われている。忍衆の俸禄は玄米30石。今なら年収 900万円。待遇は悪くない。城下の一角に忍町をつくって集住していた。
 だが時代が下ると、忍の仕事はただの番人になってくる。参勤交代時の藩主の身辺警護、火の用心、宗門帳(しゅうもんちょう 戸籍)の非常持ち出し係になる。幕末、長州戦争には忍6人が出陣したが活躍はない。明治2(1869)年、岡山藩は忍者一同を評定所に呼び出し忍者廃止令を申し渡した。「時勢変換につき、もはや忍役はやめじゃ。米5俵加増するから、ただの武士になれ」と執政(家老)はいった。これが岡山藩における忍者の終焉(しゅうえん)。いささか、むなしい。
 磯田道史(日本史家)
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【2011/03/05 10:29 】 | Ninja History | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
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